文系アラサー女はフリーランスになれるのか?

文系アラサー女が家族の介護をきっかけに、フリーランスになることを決意。フリーランスになるまでの奮闘の記録。

【ふじ@文系フリーランス】結果、音大新卒ニートになった。

 

こんにちは、ふじです。

ざっくりですが、どんな人物でどんな20数年を生きてきたのか…4部構成でお伝えします!

今回は、小学生から大学生時代までの第1部!

 

 

 

1.音楽に明け暮れる学生時代

音楽との出会いは小学校のブラスバンド部!

遡ること約20年前、小学校のブラスバンド部での演奏を聞いて感激した私は、小学校4年生からしかクラブ活動が出来ないにも関わらす、小学校3年生くらいから自分はトロンボーンを吹くんだと自分で勝手に決め込んで、毎日毎日家とか帰り道とか、こっそり隠れて練習をしていました。

練習といっても、唇を震わせてブーブー言ってる(バズィング)だけなんですけどね(笑)

 

吹奏楽で全国大会に出場したい!

小学校で音楽の魅力に取りつかれた私は、中学校でも絶対吹奏楽部に入るんだ!と決め込んでいました。今もとても頑固なのですが、振り返ると小学生の時から頑固だったみたいですw

たまたま近くに、全国大会に出場したことのある公立中学校があったので、学区は違ったのですが越境を希望し、念願叶って、千葉県の某公立中学校へ入学することが出来ました。

今ではすっかり吹奏楽の全国大会常連校になっていて、私の同級生が顧問をしているというのですから、もうほんと信じられないです(笑)

少し話が逸れましたが、そこでオーボエという楽器に出会い、私はオーボエを練習し始めました。

 

音楽大学附属高校へ進学したい!

かっこいい先輩たちに恵まれ、気の合う仲間に出会い、尊敬できる恩師との出会いがあり、全国大会への切符も手に入れ、喜びも悔しさも仲間とともに分かち合う喜びを経験した私は「音楽の先生になりたい」と思うようになりました。

音楽の先生=音楽大学へ行く

ということしか知らなかったので、迷うことなく「音大の附属高校へ行きたい!」と当時の顧問に相談しました。すると…

 

周囲の猛反対~己の実力を知れ!~

私の最初の挫折はここだったんじゃないかなと思います。

一人っ子として、なんでも叶うような10数年間を生きていて、勉強や習い事もそれなりにできる自信があった(今考えるとそんなことないw)ので、オーボエもそれなりに上手だと思っていました。

  • しかし、当時の顧問からも「今の実力じゃ難しいと思う…」と言われる
  • お金がかかる…
  • 「音大附属校に入学したら、音大に行くしかなくなるぞ」と言われる
  • 2チャンネルで「〇〇中のオーボエ下手くそ」と書き込まれる

等々があり、まあ落ち込みましたよね。

家族はどう思っているか…というと、反抗期真っ盛りでまともに話した記憶がありません(笑)

 

私立高校の音楽科に進学

この選択が正解だったかは今も分からないですが、音大の附属ではなく、音楽科のある高校を受験することにしました。

音大附属はもちろんですが、音楽科受験であっても、普通の勉強以外にピアノと歌とソルフェージュ(楽譜を読み込んだりする力)の試験があります。

その試験をクリアするために、ピアノレッスンや聴音(ピアノのメロディを聴き取って楽譜に書き起こすこと)のレッスンに通い始め、無事希望の学校に合格しました。

 

「2回目の挫折」と恩師との出会い

音大に進学するために、音楽漬けの日々を送るのですが、超絶マイナーな楽器にも関わらず、ライバルが同級生に2人いました。

その内の一人は、日本唯一の国立(こくりつ)音楽大学である東京芸術大学にストレートで合格しましたので、そりゃまあ、私は劣等感と悔しさで暗黒の高校時代でした(笑)

しかし、高校時代の恩師(元NHK交響楽団首席奏者)との出会いが唯一の私の救いだったと思います。他の門下生と比較することなく、孫のように可愛がってくださり、接してくださったのは本当に有難かったです。

「3回目の挫折」と大学生活

私は東京音楽大学に進学し、念願叶って宮本文昭氏の門下生になりました。

 

強烈かつ猛烈な恩師に出会い、仲間と共に音楽に明け暮れ、普通に恋愛をし、アルバイトを掛け持ちし、充実した大学生活だったと思います。

しかし他者と常に比較され、実力を見せつけられ、劣等感が強く自信を持てませんでした。自信をつけるまでの努力をすることもせず、音楽で食べていくことは諦め、就職活動をすることにしました。

 

内定式参加後の内定辞退

 小さな食品専門商社の営業として内定をもらい、インターン生として入社前に現場の経験と商品知識をつけるために働くことになりました。

それが良かったのか悪かったのか、食肉を扱っていたので、冷凍庫の中で作業をするのがしんどいのと、人事部長のセクハラと、音楽やっぱり続けたい!海外で働きたい!という想いが沸々と湧いてきて、内定式参加後に辞退しました。

後に採用担当者として働くとは思ってもいませんでしたが、採用担当からしたら「まじかよーやめてくれよー」てやつですね(笑)

 

音大新卒ニート

響き的に最悪ですねw

当時は今のように新卒採用はそこまで売り手市場ではなく、それなりに大変な採用状況だったと思います。

有難く頂いた内定を蹴った私は①海外で働きたい②音楽続けたいという想いから、海外の日本人学校で働こうと考えました。

音楽の講師はあまり募集が多くないため、国内の教員採用試験に向けて勉強をしながら、海外の音楽講師募集を随時チェックしつつ、アルバイト…

 

卒業間近になっても募集はなかったので、卒業後3ヶ月ぐらいそんな生活を続けていました。